新しい型をつくる

先日、一年前まで市民メディアアドバイザーだった下村健一さんのお話を聞きました。

アドバイザーを辞めた後に霞が関で菅さんの周りにいて、カンフルTVというサイトをつくっていたそうです。まったくしりませんでした。霞が関で働くことは知っていましたが。
http://kanfullblog.kantei.go.jp/2011/04/20110423.html

下村さんは丁寧に一年間やってきたこと、考えたこと、できなかったことなどを交えてカンフルTVを見せてくださいました。わたくし正直言うと政治家への興味の持ち方がわかりません。

TVをみないので、マスコミがどう報道したかにはまったく興味がもてません。関係ない業界の話をされても…強い哲学がなければ面白さがありません。カンフルTVを見て私が知りたいと思ったのは政治をしている人たちです。どんな思いで、どんなちからによって動かされているのか、どんな未来を想像してひとつひとつを決めているのか。そんなことを知りたいとおもいました。

辛辣のようですが、メディアリテラシー業界に大勢いるTV局あがりの人の多くの方は、TVという型しかしません。研究者も実践者も同じです。いまは違う土俵にたっていてもその型が万能だと信じて疑いません。大手メディアのやり方に意義を唱えても未来はつくれないのではないでしょうか。まして、その大きなもののルールでは同じ文脈でしか語られることはありません。

ネットという世界の型は、TV局のそれとは違うやり方があるはずです。根幹に流れているものはどの分野もかわらないはずです。
YouTubeもニコ動も新しい型を作ったので文化が確立されました。

下村さんは霞が関でもうしばらく未来をつくると宣言されたので、わたしはあえて本音をここに書いています。(知人の話をすぐに美談に書く時代もおわりました。というか、終わらせたい。笑)

ぜひ勇気をもって新しい型をつくってください。
TVの型は内側に入ってつくると、どうしてもプロパガンダにみえてしまいます。菅さんの古い友人だからこの視点なんだろうな〜と思うことは良くも悪くもあったと思います。私は数時間で菅さんが好きになりました。それだけの材料を提供されたからです。

 

きょうYouTubeの広告がNHKでした。いままで敵視していた関係が手を組んだのです。価値は視聴率ではなく、響く人動く人にどれだけ情報をとどけられるかの時代になりました。

ネットをみるターゲットに響くやり方は必ずあるはずです。私たちは本当のことを知りたいと思っています。そのままの情報がほしいのです。ぜひ、これからをつくっていく大学生がみたくなるようなものをつくってください。期待しています。


この日アンケート表示にチャートイットを使用させていただきました。ありがとうございました。

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“霞が関の市民メディア”を目指して 菅内閣での映像広報活動体験報告

講師: 下村健一 (内閣審議官、NPO法人市民がつくるTVF理事)

■主   催: NPO法人 市民がつくるTVF

下村さんには、内閣広報と市民ジャーナリズムの意外な共通項、メディアとしての市民ビデオの可能性とその限界、あるいは、原発事故でますます必要性が高まったメディアリテラシー教育などについて、菅内閣での体験を踏まえて生々しく語っていただき、その後、会場の皆さんとフリートークの時間を設けます。

○公式サイト/事務局のお知らせ
http://tvf2010.org/

ショートメッセージの美学

ケータイは断然Cメール派です。短い文章で的確に意図を伝える。そして短時間ですみます。小さな画面にちまちまと文字を打ち込む行為がじつは好きではありません。とても偏屈かもしれませんが、人がやっていて美しいなぁと感じたことがないからです。本を読む、新聞を読む、音楽を聞く、人は電車のなかで様々な過ごし方をします。楽しそうにしている人を見ると見ている私も嬉しくなります。

ケータイ、iPhone、iPad、どれもなぜか美しくありまん。背筋の問題かな?理由はよくわかりません。新しい技術が大好きな私がなぜ美しいと思えないのかが長年の不思議です。

話はショートメッセージに戻ります。SMS(Short Message Service)が他社間でも使えるようになって沢山の人とやりとりをするようになりました。50文字という文字制限(au 他2社は70文字)があるにも関わらず、ショートメッセージで何通も送ってくる人がいます。それも内容は薄く、最後は「ね。」だけだったりします。そうすると私のなかに、モヤモヤとした感情が生まれます。

手紙にも俳句にも短歌にも美学があります。ショートメッセージにも型があるのだから美学が内在しているはずなのです!

…あまりにも偏屈だと自分でもわかるので、あまり大きな声で言えません。友達が減ります。

自分が日常のなかの無意識に使っている道具にも“美”を持っていることが少し嬉しくなりました。人様に強要したりしませんので、遠慮なさらずにショートメッセージを送ってくださいまし。笑

 

 

 

コミュニケーションとカフェ

先日こんなことがありました。
男友達と珈琲を飲みに行くことになり場所をメールしました。
「高田馬場のニューヨークカフェにいます。」

現れた友達が不満そうに言いました。
「ニューヨークカフェなんていうカフェは高田馬場にはない。ニューヨーカーズカフェの間違いだったよ。」
でもどうやってたどり着いたか聞いてみるとiPhoneで検索したらわかったそうです。
「よかった。よかった…」

検索してみると、ニューヨークカフェと入れても何事もなかったかのように“ニューヨーカーズカフェ”の情報を並べてきます。
グーグル先生やります。

その場はそれから私がしでかした過去のドジにまでいたり…
注意散漫で正確に名詞を覚えられない自分を知られていることが恥ずかしくなりました。

後日女友達に私の説明で混乱することがあるかと聞いてみつつ、その時の話をすると「なんじゃその男!」とお怒りです。
どのあたりに怒りなのかはじめはわかりませんでしたが、そんな小さな間違いを指摘する必要なんてないと言います。なるほど、そういう見方もあるのですね。
ためしに別の女友達にも聞いてみましたが同様の意見でした。優しくないそうです。そういうものなんですね、感覚が麻痺していてわかりませんでした。

少し俯瞰して考えてみると、情報伝達の基本概念が違っていることに気が付きました。

「情報は正確であるべき。」と思っている人と
「情報は解釈の余地をもつものである。」の違いです。

このふたつをコミュニケーションのスタイルがスポーツにおきかえてみると、キャッチボールと砲丸投げぐらいの違いがあります。
そして砲丸投げ型のコミュニケーションを相手に求める傾向にある職業はデザイナー、プログラマー、エンジニアの男性に多いようです。投げ終わったときに何メートルだったのかを正確にはかります。

コンピューターは解釈の余地を、まだ持っていません。それらを扱う仕事の人は思考の基板として正確な情報を無意識に肯定しているのだと思います。
でもあえて言います。みなさんは優秀なデザイナー、プログラマーなのだから、人間が使うことをもっと想定していただきたいと思います。あいまいな情報のやりとり(情報は解釈して使う)には莫大な情報量が含まれています。ピンポインで機械的な情報でないので、情報の受け手と送り手のなかにゆらぎが生まれるからです。
そしてコミュニケーションはゆらぎにより豊かなものになります。

そんなわけで、カフェへご一緒しましょう。

注意:間違っていたのに何言っているんだよ。と思った方は文脈を理解していない方ですよ。おほほ。

遊びは続く

電車のなかでゲームをしている人が3人揃ったら三目並べ、四人ならリーチ、5人なら完成という遊びを心のなかでしています。
まだ5人揃ったことはありません。

夏休みに入ったので昼間に子供たちを見かけるようになりました。
昨日どじょうを手で捕まえてる子供たちを見ました。生き生きとした子供たちがそこにいました。
私は子供の頃近所の川にどんな種類の魚がいてどんな動きをしているのかを知っていました。
ファミコンがどの家にも一台あるはじめの世代ですが、私の家には当時とっても高価だったコンピューターはあってもファミコンはありませんでした。

いま子供たちは集まって遊んでいます。みんな自分の手のなかにある小さな画面を見つめています。

ファミコンで遊んだ子供たちは、大人になって電車でゲームをしています。
私は彼らを見て遊びます。

いま場所を選ばずどこでも手の中の画面を見つめている子供たちは将来どんな遊びをするのでしょうか。

せんせいあのね

小学校一年生の国語の教科書には「せんせい、あのね。」ではじまる文章の型があります。一番はじめに習う文章には、誰に向けて書くのか明確に誘導されています。

メディア・プラクティス論の講義で学生にアンケートをとりました。

<ケータイメールで名前を書きますか?>
A:自分の名前も相手の名前も書く
B:自分の名前だけ書く
C:相手の名前だけ書く
D:両方書かない

電話も固定電話しかなかった時代は「はい、宮原でございます。」なんて言っていました。
お手紙も○○様 からはじまり署名で終わりました。

それなのに、ケータイは署名も相手の名前も書かないのがいつの間にか一般的になったんですね。

哀愁漂ってしまうのは、私がいまだにケータイのメールでも○○さま ではじまり 署名をするからです。ここは勇気をもって受け入れましょう。

「あのね〜」から始まる口語の文章がケータイメールのお約束になったんですね。

宴の後

“わかりやすさ”と“たのしさ”を重要視する思想のなかで生きています。
短時間で魅力を伝えるにはそれが最短距離。TVも雑誌も本も学校も人も私自信も盲目的に信じています。
でも、最近「それは、ど〜なのよ〜。」と思うのです。

サンプル映像Aは見て面白いと感じていられる時間は、ほとんどの人にとって短いはずです。何らかの武道をやっていた人にとっても興味深く最後まで見れるかもしれません。

サンプル映像Bはスターウォーズを見た人ならば、面白いと感じる時間はAより長いはずです。そして多くの人が視覚的な刺激と音の刺激に魅了されます。
私も猫のように目がおってしまいます。

ではわかりやすさ楽しさの思想が目指すところの、入り口は入りやすく、その後は興味を持って自分で学ぶ。は成功するのでしょうか?

観る順番で興味の深さが変わるのでしょうか。
A→B B→A

サンプル映像A

サンプル映像B

学生さんの検索の仕方を見ていて、世界が狭まっていく音が聞こえました。
彼らはとても賢いので、正しい答えを瞬時に検索できます。
しかし「ブレ」や「深さ」を回避することにも直結しているようです。

わかりやすさ、たのしさは重要です。
しかしそれで消し去るものがあります。
わかった気分になる前に、混沌を抱けるココロとカラダを持つにはどのような思考が必要か考えたいと思います。

\(^o^)/の使い方

大学の授業でアンケートをとりました。

ケータイのメールで\(^o^)/をどのような意味で使用していますか?

A:嬉しい B:絶望 C:両方 D:その他

絶望と喜びが同じ意味!?

絵文字を積極的に使わない人、ケータイメールを頻繁にやりとりしない人にとっては理解しがたい結果になりました。私はヤッターという意味として理解していました。

\(^o^)/オワタ 正式にはこのように読み書きするようです。

オワタとは人生が終わったという絶望感の表現だそうです。正直申し上げると大げさすぎて私には少し抵抗感があります。

もともとはケータイに登録されていた絵文字から発祥し、意味が文脈や発信者で変化する記号になったようです。

もちろん大学生でもその多様化した意味をしらない人もいました。若い世代と一括りにするのが危険な時代です。どんなサイトを見ているか、どのような友人関係があるかで言葉が変化しています。

シニカルな感情表現の道具として使用されていることが興味深いです。

ケータイメールのやりとりのなかで、誰にでもわかるものでない奥深い表現が現れては消えています。そのような細分化された人々の言葉を俯瞰してみた場合どのようなものがみえてくるのでしょうか。

しかしこれは時代が早く動きすぎるので誰も捕まえることができないようです。残念ならが学問や文化や歴史として残ることはなく流動的な空気として消費されるて終わってしまうのだろうな。

参考サイト http://ja.wikipedia.org/wiki/人生オワタ