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アート Archive
編集する
クロアチアで取材をうけたものが記事になっている。
こういうものは嬉しいけれど、少し悔しい。
どうして自分でこういう風に自分を編集できないのだろうか。
日本人が取材した文章や写真はまったくそう思わないから、自分の視点からより遠いことが羨ましいだけなんだろうか。
http://www.lomodeedee.com/2010/02/22/interview-with-mika-miyabara-tatsuo-sugimoto-bouncing-pixels-and-images/
わたしは言葉が苦手だ。
クロアチアのことを思い出せるのも砂利道の音と川沿いのやさしい風と草の匂いとイカ墨のリゾットの味などだ。
もしそんなものが言葉にたよらずに保存できたらと思うが、写真もビデオも助けにしかならない。
小さな幸福は誰とも共有できないから永遠に自分のものなのかもしれない。
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極東ホテルにいます
- 2010-02-22 (月)
- アート
先日写真集『極東ホテル』刊行記念トークイベントに行ってきました。
昔、華道家のアトリエだったという古いが味のあるギャラリーには、『極東ホテル』の写真が展示されている。
国籍も違えば年齢も違うのに、どこか同じ顔をした人たちの写真。
前回のスライドショーで見た時、みたくない自分をみせられたような気持ちになって恐れをなして逃げ出した。
今回は空間も開放的なので違う気持ちでみれた。
いまは極東ホテルの住人である自分を、少しうけいれつつあるからかもしれない。
50人弱の人たちがギャラリーのまんなかにひかれたゴザの上と、壁際の椅子に座ってはじまるのを待った。
管啓次郎(作家・翻訳家)と鷲尾和彦(写真家)が出て来て、透明感のある美女がはじめの挨拶をしてトークははじまった。
菅さんは冒頭「きょうは何の打ち合わせもしていません。こういうものはだいたい打ち合わせや終わった後の居酒屋の話が一番面白いからです。」
そう言って話し出された二人の話に会場の誰もが参加している。まるで自分が二人の世界の切りとりかたを憑依し、世界を見ているような気分になった。
ただしけっしてすべてを理解できるわけではない。わかるわけのない話が沢山なのだ。
TVのように誰にでもがわかるつくりというのは、本質を伝えることはできない。今わからなくても、いつかわかればいいのだそんな空気があった。
知らない固有名詞がどんどん出てきた。音楽、詩、作家、写真家、、、ネットで調べたいといいう欲望がうずうずしてきた。
ふと、座っている女の子二人を見ると正座している。それもふたり並んで真剣にメモを取りながら、そうかここは彼女たちにとって寺子屋なんだ。
ここに大学でもネットにもない知があるのか。
もう私はネットで調べたいとも、メモをしようとも思わなくなった。
私にとっては、こどものころ母親や祖母が親戚や近所のおばちゃんとしている話を聞くあれだった。
そこに私の存在はあるが会話も意味もわからない、とにかくずっと聞いていた。
知らない言葉、わからないやりとりは、ある日突然その意味が理解できるようになる。
でも、あの空気を男性が作り出すことができるとは知らなかった。
大きな愛情を持って人に接することができる女性特有の、あの空気だ。
決して振りかえって今話した内容を確認することのない。
永遠の迷子になることが目的かのような話。
終わった後に菅さんの著書「本はよめないものだから心配するな」をもってサインをお願いした。
名前を教えてくださいと言われたので名刺を差し出した。
いま私の手元にある本には私の名前の後に“いつか本はよめる!”と書かれている。
そうそう、清澄白河で人生2回目のもんじゃを頂く。おかみさんの絶妙な監視と愛のもとで。おいしゅうございました。
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耐久性といま
国立新美術館で行われてるメディア芸術祭をみてきました。
アート部門、エンターテインメント部門、アニメーション部門、マンガ部門がそれぞれ表彰され展示されています。
平日にも関わらず会場は若い人であふれ、作品が出す音で賑わっていました。
数年前には考えられい事だったと思います。恵比寿から六本木に場所が変わって行きやすくなったからなのか、宣伝がうまくなったのか、知名度が上がったのか。理由はよくわかりません。
作品たちは秋葉原のみんなの好きなものを集めてひっくり返したように、分野のしきりがなく人を引き寄せていました。美術館というより遊び場として成功しています。こういう手があったのか参考になりました。
アート部門で言うと、私が作品として魅かれたものが2点ありました。審査員が変わったからなのか、みた後の疲れを感じない作品が多くなった気がします。メディアアートの作品が展示されている会場は、なぜか見終わった後にエネルギーを吸い取られた感覚がのこることが多いのですが、今回はそういうものはあまりありませんでした。
見終わった後に地下にあるショップに行きました。
目的はそこで買った多色ボールペンの替え芯でしたが目的のものはなく、がっかりと店内を見てまわりました。
私はそこで先ほど見てきた作品たちよりも輝いて見えるものを発見しました。
それは雑誌です。
「暮らしの手帖 花森安治 特集」
私は花森さんが誰だかしりませんでしたので、表紙の色をみて花粉対策特集かと思ってしまいました。ふふふ。
なんて無知なんでしょうか。
暮らしの手帖という雑誌が戦後すぐに始まったこと、編集長が花森さんであったこと。(いままで大橋鎮子さんが作った雑誌だと思っていました。)この雑誌の最大の特徴である広告を一切のせない、その哲学の元は何か。立ち読みするにももったいない情報なので購入しました。
まだパラパラとしか読んでいないのに言葉がずっしりと思い雑誌を手に歩いていると、こんな疑問が湧いてきました。
メディア芸術と暮らしの手帖との差はなんだろうか。
もちろん比べる対象ではないことは確かなのですが、そのものがもつ哲学なら比べられるはずです。
地下鉄の長い長いエスカレーターに乗っていると、ふと耐久性と今という言葉が浮かんできました。
コンピューターを使っているから10年後にはみれなくなってしまうという類いの話ではなく、普遍性がそこにどれだけあるか。
メディア芸術祭は今はいまでしかなく、50年後に見たら2010年という過去でしかないと思います。
暮らしの手帖が輝いて見えたのは、今をていねいに見つめることで未来を見つめてきた雑誌だと感じたからでした。
私も暮らしの手帖のような普遍性をもった仕事や作品をしたいと強く思いました。
保存版III 花森安治
http://www.kurashi-no-techo.co.jp/index.php/bessatsu/e_2049.html
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鷲尾和彦さんと高畑勲さんの責任
二人は似た匂いがする作家だ。
鷲尾さんは写真家だし高畑さんはアニメーション映画監督、媒体は違うけれど。現実を現実以上の迫力を持って提示してくる。
人が好きで、傷つきやすくシャイである。
昨夜青山ブックセンターで行われた鷲尾さんのスライドショーとトークに行ってきた。鷲尾さんの写真は好きなので本の発売を心待ちにしていた。
昨夜は購入してサインをしてもらうつもりで来たのに、何も買わずに原宿駅までの華やかな街を早足で駆け抜けた。
今の私は作品を受け入れられなかった。
「見たくない現実を目の前におかないでくれ。」そう叫びたくなったのだ。
高畑さんの作品の「火垂るの墓」も「赤毛のアン」も見たくない時期があった。自分で見ないようにしている自分自身を、むき出しで提示してくるのに絶えられなかった。でもまたある時ふと見たら私に寄り添ってきた。見たくなかった自分一部を自分が受け入れられ愛おしくなっていたことに気がついたのだ。それは家族や死や憎しみや女性らしさや、弱さや優しさだった。
先日高畑さんとお会いしたときに「新学期・操行ゼロ」という映画をお薦めしていただいた。無知な私はsoukouzeroが何語か解らなかった。その前にフランス映画の話や1930年代のロシアの歌の話なんかをしていたので外国語だと思い込んだのだ。「書いてください。」と恥ずかしげもなく名刺に書き込んでもらった。
戦前の学校での評価が操行10とか0だったそうだ。操行0は最低の評価のことだそうだ。きっとわたしも操行0なんだろうな。中学校の担任に3年間「継続は力なり」と書かれたぐらいだから。
極東ホテルに写っている空ろな目をした旅人たちと、同じ目の自分を受け入れる時がきたとき鷲尾さんにサインをしてもらおうと思う。
作品を発表するということは重い責任が伴う、とこれを書いていた思った。
昨日は両サイドで大学生ぐらいの男の子がひたすらメモを取っていた。彼らが今何に共感し、時間をへたときにどう感じるか。
そんな途方もない気持ちのゆれを追うことは、なかなかできない。
好きとか嫌いとか簡単に言ってしまえることではなく、見たものが血になっていく。
雪が降ると東京が脅えている。
http://washiokazuhiko.jp/
http://www.amazon.co.jp/極東ホテル-鷲尾-和彦/dp/4903545520
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市民がつくるTVF プレ・イベント
まだ映像を素人が編集して人に見せるなんて、誰も考えていなかった時代に始まった東京ビデオフェスティバル。昨年ビクターの手を離れました。今年からは市民の手で…なんて言っているけど、市民って誰のことっ?!そんな人見たことないよ。
ここのNPOの理事の役職をもらっているくせに、いつものように斜めに見ていたら表彰式の司会の役がまわってきた。
何がコワイってここの審査員しているおじちゃんたちが(失礼!)ひとくせもふたくせもあることなんだよね。
まっとうで誠実でちゃんとモノを作ってきたひとたちだから、慣例のようにとか、考えない適当な言葉を言ったとたん怒られそう。
私は彼らに始めてあったの二十歳のとき、受賞者という立場で壇上に上がった私に「この作品を評価するか大変もめました。私はいいと思ったが、まったくひどい作品だと言う審査員もいた。」と言われたのだ。
私は褒められるとばかり思っていた、まさか表彰式でそんな本当のことを言われるとはゆめゆめ思っていなかった。たしかに今考えるとその意味がわかる。自分の祖母についてのドキュメンタリーで、寝たきりの祖母に対して愛情とも憎しみともとれる視点で撮っている。(はず、過去の作品は見ないことにしている。)
壇上の私は若気の至りでムッとしたが、後に東京ビデオフェスティバルが素晴らしいとわかった。それは他のコンテストなどで表彰式に出てからだった。
作品を決める真剣さ、未来をみつめた姿勢、表彰式でスタッフみんなが作品を見ていて一言伝えたいと思っているコンテストは他にはなかった。その後何回か賞を頂いたが、やはりその真剣さは変わらなかった。
そんなご縁のフェスティバルだけど、私は密かに企んでいることがある。映像を選ぶことに(審査)長けているこのフェスティバルとネットでの映像の評価を結びつけられないかと考えてる。
審査員のみなさんはほぼ全員ネットを信用していない(と思う)。だけど、彼らが夢見てきた「誰もが映像を使って自分を表現し、それをみんなで見る」ことがネットによって更に可能になった。今だからこそ、彼らのエキスをその舞台となる世界にも入れたら面白いと思うわけです。
ネットの映像の評価もまだ定まっていないし、今やるべきだと思うのです。はい。
私は市民という言葉に輝きを感じる世代ではないですが、意図するメッセージは共感できます。
ようは表面ではなく、中身が共感できればいいのです。
それと同じように映像の評価をネット関係者や映像制作者と一緒にディスカッションできる場をつくりたいと思っています。
いや〜そんな事よりも、まずは司会で失言をしないようにしなくては。
市民がつくるTVF プレ・イベント
開催日時: 2010年1月30日(土) 9:30~18:30
会 場: 日本工学院専門学校 蒲田キャンパス デジタルシアター
東京都大田区西蒲田5-23-22
http://www.neec.ac.jp/access/index.html
主 催: NPO法人市民がつくるTVF
特別協賛: 日本工学院専門学校
協 力: 星の降る里芦別映画学校
西山洋一/三浦菜穂子(ホームページ制作)
いずみ窯(トロフィー・楯制作)
プログラム:
●入賞作品上映会 (開場9:15)
9:30~ 入賞作品15本を一挙上映 (解説:小林はくどう氏)
●発表・表彰式
14:00~ 「優秀作品賞」の発表・表彰
15:00~ 「ビデオ大賞」の発表・作品上映・表彰
●審査委員によるトークフォーラム
16:00~ 審査の過程で話題となった事などが語られます。
出演:羽仁進氏、高畑勲氏、椎名誠氏ほか、(進行:下村健一氏)
○交流会&NPO発足記念会(スエヒロ学食) ※会費制 3,000円程度(当日受付で集めます)
17:15~18:30 作者のみなさんや審査委員との自由な語らいの場です。
http://tvf2010news.sblo.jp/article/34431428.html
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大縄飛び
早稲田大学の学生さんが作った映像が秀逸です。
言葉では何も語られてはいないが、多くのことを語っている。
なんと言っても人と人が出会うことはたのしい。
watch?v=b2MV8G7Yk0U
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デバイスアート@ザグレブ
- 2009-10-17 (土)
- アート

クロアチアのザグレブにきています。展覧会のための準備中です。テキパキとスタッフが働いてくれるので早めに準備ができそうです。
ザグレブは古さとと新しさがちょうどよい街に感じます。
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声なくても質問
- 2009-07-23 (木)
- アート

ネットで世界の見え方は変わったし、多くのものが変化している。私はいまだに変化していないものを、ずっとどうにかしたいと思っていた。その名はパネルディスカッション。知識も経験もある人かが集まって意見を言うのにかみ合っているのを見たことがない。それに、その時の質問者は、いつもとんちんかんな意見を言うと相場がきまっている。だから誰も手を上げない。(斎藤孝さんの『質問力』にどうしてそうなるかが書かれてた。)
ネットで人と繋がるのに慣れた世代が、リアルな場での振る舞いや感じ方もちがうのは当然だ。せっかく、人が集まっているというのに何も生み出すことがないなんて、もったいないと思っている人はおおいはず。何よりも自分がその場にいて有益だと思えない時間はもったいない。有名人にあって満足できるのは一瞬だろうし。
いろいろな場で声の小さい人の意見は潰されるし、声を出さない人の意見はないものにされる。これを変えたい。
早稲田大学で、「メディア・プラクティス論」という授業をさせてもらっている。その授業でためしにケータイで意見をあつめ、それをひろいさらに話をすすめる、ケータイ参加型の授業をしてみた。
100人の意見を集め参加しながら進んでいく授業の熱気はいままでに感じたものがないものだった。もちろん、目の前にいるのだから意見は手をあげていえばいいという意見もあるし、違和感を感じる学生もいる。(10人弱)
素直に意見が言えるとか、手をあげる勇気がないので意見が言えてうれしい、授業に参加している感じがして良いというのが大多数だった。
これをうけて、杉本さんに無理を言って一晩でソフトを作ってもらった。その名はHototogissです。ホトトギスから来ているみたいです。鳴かぬならなんとか〜からきているのでしょうか。
ゲスト講師の鷲尾和彦さんも快くこの試みを承諾していただいて、授業は今までに体験したことがないものでした。100人の学生さんたちが次々に送ってくる意見や共感や質問を瞬時に反応しながらテーマや方向性も決めていく。
誰も答えを知らない。そこに面白さがあるのだと思います。個人が変えていける場の可能性をみました。
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子供の情景
今度ワークショップをする関係で子供の情景というアフガニスタンを舞台にした映画とトークを見てきた。
監督をしたのは現在20歳のイラン人の女性。
先日80歳の映像にびっくりしたが今度は若い監督の生意気ぶりにびっくりした。(笑)わたしは彼女の腹のくくれた生意気ぶりに魅了された。
なぜ暴力は続くのか、素朴だけど核心的で心がある言動は彼女を育てた両親が素晴らしいからなのだろう。
彼女はイランで有名な映画一家で映画の英才教育をうけて育ってきたという。
学校教育はあまりうけず、8歳から映画を作ってきたそうだ。
彼女の行動で印象的だったのは子供たちから質問をうけているときに、突然「あなた、今何をおこなわれているかわかりますか?」と小学校2年生の女の子に聞いたことだ。
こういうのはなんとなくタブーとして存在している。わからない子はミソとしてあとでフォローしたりするのだが、彼女は一人の女の子が戸惑っているいることを見過ごせなかった。何を誰のためにやっているのか真剣に考えての行動は愛にみちていた。
彼女がこれからつくる映画が楽しみだ。
http://kodomo.cinemacafe.net/index_pc.html
映画の舞台になっているバーミヤンはいつか行ってみたいところ。
アフガン人に「あなたはバーミヤン出身だ」と冗談を言われたことがあるが、たしかに主人公の女の子は私の小さなころに似ている。
もっと斜に構えた目をしていたが。
相方の日記↓
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ビデオの祭典
東京ビデオフェスティバルが今年で終了するそうです。
ビクターが31年間続けてきたこの映像の祭典は世界最大級の映像の祭典です。
世界から集まる映像作品はプロからアマまで内容もアニメからドキュメンタリーまで多様です。
ビデオカメラが家庭に入り込む前から始まったこの映像祭は、ビデオで何ができるかという問いとともにはじまったはずです。カメラを持って何をどう撮るか、撮るべきものは何か映像のプロではない人々の挑戦的冒険がはじまった時です。
完成した映像を評価し作り手の人びとをつなげた場としての映像祭です。
私も東京ビデオフェスティバルで何度か賞をいただくことができました。
その賞が私にもたらしたのは、作る勇気とつながりでした。これがなかったらアーティストとしての私は存在しなかったことでしょう。
作るとは何か、メディアを通じたコミュニケーションとは何かねちねちと考える私の土台になっています。(笑)
いま映像は機械の進歩で誰でもが簡単にとれるようになりました。
ケイタイで撮ってすぐにインターネットで公開することも可能になりました。
映像を撮るという行為は人間に何をもたらしたのでしょうか。この長い歴史がこれからの映像社会を作っていくと確信しています。
東京ビデオフェスティバルが終了するには企業としての苦渋の選択があるのでしょう。
しかし今まで続けてきたスタップの方の熱い思いがここまで終わりの日を遠のかせたのだと思います。
ビデオフェスティバルという祭典の終了と同時にひとつの時代が終わります。
映像を撮ること作ることが次の段階に進み始めている、今だからこそ終わることができるのだと思います。
次の冒険はどんなものになるのでしょうか。
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