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それがどーした Archive
アバターもえくぼ
もう話題の中心ではなくなってきてはいますが
「3D元年の幕開け的になった映画」などと言われているアバターを見ようか
迷っているあなた、見るべきです。
ひとりでなく、気さくになんでも話せる友達か恋人か家族と行ってください。
私がおすすめなのは2200円のアイマックスシアターで見ることです。
アバターの3Dの方式は4つあります。
メガネの色で変えるもの、シャッターで変えるもの、偏光で変えるもの。
どのみち大きくてぶかっこうなメガネをかけることはまちがいありません。
アイマックスシアターだと椅子がよくて、音がよいので長時間のこの映画にはおすすめです。
しかし映画の内容は期待して行ってはいけない映画です。
期待しないで見ると私のように映画館でひとりだけ泣くことができます。
どこで泣いたかは恥ずかしいので秘密にいたしとうございます。
となりに座っていたおねいさんたちは、途中でケータイをかぱっと開けました。
もう嫌になってしまったのですね。
ジェットコースターに一度乗ってしまったら降りるわけにいきません。
それと一緒です。映画を途中でやめるという選択肢は、つれがいる場合はないのです。
見終わった後で物語の構造を考えると、ジェームズ・キャメロン監督が日本のアニメをよく研究していることがわかります。
特に宮崎駿監督ものはお好きだということがよくわかります。
ナウシカやもののけ姫などはスタッフ全員が研究したのでしょう。
沢山のハリウッド映画のオマージュでもあります。
寿司とハンバーグとみそ汁とニンニクレタスチャーハンが一皿にもりつけられた映画に
何も伝えるべきものがないことは誰でもわかると思います。
見方としてはお勧めなのは、萌え系アニメと同じ心理状態でみます。
記号としてのかわいらしさを見て、記号としての戦いをみて、記号としてのコミュニケーションを見るのです。
それで心地よくみることはできます。
期待していた鬱病になるほどの森の美しさは宣伝文句だったようです。
あれで病気になるのだったら、桜が散るのが悲しいと病気になってしまいます。
3D元年とかいう言葉を信じてはいけませんよ。
パナソニックや映画会社が仕掛けたとっても上手な宣伝ですね。
わたしも高畑勲さんに言われるまで気がつきませんでした。
人にとって必要なモノはもう出そろっているのに
それでも何かを作り出さないといけないのが今の消費社会です。
そこで個人がどう考えて何を選ぶか3Dで映画を見るか、TVを見るのか問われるのはこれからです。
性欲とセットになった新しいメディアは成長するという歴史があるので、エロビデオの世界がのりだしたら伸びるかもしれませんね。
肯定的に語るか否定的に語るかは、どちらも大差がないと最近おもいます。
痘痕(あばた)ですら、大好きな人のものならえくぼなのです。
映画に行って美味しいケーキを食べて、楽しいおしゃべりをして時をすごす。 それが人生というものでしょ。
ぜひ大好きな人と映画に行きましょう。
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編集する
クロアチアで取材をうけたものが記事になっている。
こういうものは嬉しいけれど、少し悔しい。
どうして自分でこういう風に自分を編集できないのだろうか。
日本人が取材した文章や写真はまったくそう思わないから、自分の視点からより遠いことが羨ましいだけなんだろうか。
http://www.lomodeedee.com/2010/02/22/interview-with-mika-miyabara-tatsuo-sugimoto-bouncing-pixels-and-images/
わたしは言葉が苦手だ。
クロアチアのことを思い出せるのも砂利道の音と川沿いのやさしい風と草の匂いとイカ墨のリゾットの味などだ。
もしそんなものが言葉にたよらずに保存できたらと思うが、写真もビデオも助けにしかならない。
小さな幸福は誰とも共有できないから永遠に自分のものなのかもしれない。
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必要なものは美しい
- 2010-02-14 (日)
- それがどーした
いまの時代必要なものが何か考えるのは難しい。
しかし、いまの私は以前よりすばやくそれが何か答えることができる。
物質的にも精神的にも、ここ半年で沢山のものを捨てたし、ふときがつくと自分のものでなくなっていたものも多い。
手元になくなってだいぶたってから、あれは失敗だった…というものは数が少ないがある。
その一つが暮らしの手帖の古本で、電話のかけかたやマナーが書かれた号だ。
なんだか大切なことが書かれていた記憶があるけど、それを確かめるすべがないというのは苦しい。暮らしの手帖の花森安治特集を読んでいてふと、そんな思いにとりつかれた。
しかし、私に本当に必要なものならばもう一度出会いがあると思う。
必要なものは“無い”という状態からしか得ることができないのだろうか。
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耐久性といま
国立新美術館で行われてるメディア芸術祭をみてきました。
アート部門、エンターテインメント部門、アニメーション部門、マンガ部門がそれぞれ表彰され展示されています。
平日にも関わらず会場は若い人であふれ、作品が出す音で賑わっていました。
数年前には考えられい事だったと思います。恵比寿から六本木に場所が変わって行きやすくなったからなのか、宣伝がうまくなったのか、知名度が上がったのか。理由はよくわかりません。
作品たちは秋葉原のみんなの好きなものを集めてひっくり返したように、分野のしきりがなく人を引き寄せていました。美術館というより遊び場として成功しています。こういう手があったのか参考になりました。
アート部門で言うと、私が作品として魅かれたものが2点ありました。審査員が変わったからなのか、みた後の疲れを感じない作品が多くなった気がします。メディアアートの作品が展示されている会場は、なぜか見終わった後にエネルギーを吸い取られた感覚がのこることが多いのですが、今回はそういうものはあまりありませんでした。
見終わった後に地下にあるショップに行きました。
目的はそこで買った多色ボールペンの替え芯でしたが目的のものはなく、がっかりと店内を見てまわりました。
私はそこで先ほど見てきた作品たちよりも輝いて見えるものを発見しました。
それは雑誌です。
「暮らしの手帖 花森安治 特集」
私は花森さんが誰だかしりませんでしたので、表紙の色をみて花粉対策特集かと思ってしまいました。ふふふ。
なんて無知なんでしょうか。
暮らしの手帖という雑誌が戦後すぐに始まったこと、編集長が花森さんであったこと。(いままで大橋鎮子さんが作った雑誌だと思っていました。)この雑誌の最大の特徴である広告を一切のせない、その哲学の元は何か。立ち読みするにももったいない情報なので購入しました。
まだパラパラとしか読んでいないのに言葉がずっしりと思い雑誌を手に歩いていると、こんな疑問が湧いてきました。
メディア芸術と暮らしの手帖との差はなんだろうか。
もちろん比べる対象ではないことは確かなのですが、そのものがもつ哲学なら比べられるはずです。
地下鉄の長い長いエスカレーターに乗っていると、ふと耐久性と今という言葉が浮かんできました。
コンピューターを使っているから10年後にはみれなくなってしまうという類いの話ではなく、普遍性がそこにどれだけあるか。
メディア芸術祭は今はいまでしかなく、50年後に見たら2010年という過去でしかないと思います。
暮らしの手帖が輝いて見えたのは、今をていねいに見つめることで未来を見つめてきた雑誌だと感じたからでした。
私も暮らしの手帖のような普遍性をもった仕事や作品をしたいと強く思いました。
保存版III 花森安治
http://www.kurashi-no-techo.co.jp/index.php/bessatsu/e_2049.html
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くらげになろう
- 2010-02-09 (火)
- それがどーした
わたしがあなたに魅かれるのは、流れに身をまかせられる強さを持っているからです。

世界をそのまま受け入れて、海と空の区別もないかのように漂える
あなたからは私がどのように見えますか。
気がついたらクラゲになっている、なんてことはあるのでしょうか。
空と海をわけないように、良いとか悪いとかわけなかったら
流れに身をゆだねて漂えるのでしょうか。
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鷲尾和彦さんと高畑勲さんの責任
二人は似た匂いがする作家だ。
鷲尾さんは写真家だし高畑さんはアニメーション映画監督、媒体は違うけれど。現実を現実以上の迫力を持って提示してくる。
人が好きで、傷つきやすくシャイである。
昨夜青山ブックセンターで行われた鷲尾さんのスライドショーとトークに行ってきた。鷲尾さんの写真は好きなので本の発売を心待ちにしていた。
昨夜は購入してサインをしてもらうつもりで来たのに、何も買わずに原宿駅までの華やかな街を早足で駆け抜けた。
今の私は作品を受け入れられなかった。
「見たくない現実を目の前におかないでくれ。」そう叫びたくなったのだ。
高畑さんの作品の「火垂るの墓」も「赤毛のアン」も見たくない時期があった。自分で見ないようにしている自分自身を、むき出しで提示してくるのに絶えられなかった。でもまたある時ふと見たら私に寄り添ってきた。見たくなかった自分一部を自分が受け入れられ愛おしくなっていたことに気がついたのだ。それは家族や死や憎しみや女性らしさや、弱さや優しさだった。
先日高畑さんとお会いしたときに「新学期・操行ゼロ」という映画をお薦めしていただいた。無知な私はsoukouzeroが何語か解らなかった。その前にフランス映画の話や1930年代のロシアの歌の話なんかをしていたので外国語だと思い込んだのだ。「書いてください。」と恥ずかしげもなく名刺に書き込んでもらった。
戦前の学校での評価が操行10とか0だったそうだ。操行0は最低の評価のことだそうだ。きっとわたしも操行0なんだろうな。中学校の担任に3年間「継続は力なり」と書かれたぐらいだから。
極東ホテルに写っている空ろな目をした旅人たちと、同じ目の自分を受け入れる時がきたとき鷲尾さんにサインをしてもらおうと思う。
作品を発表するということは重い責任が伴う、とこれを書いていた思った。
昨日は両サイドで大学生ぐらいの男の子がひたすらメモを取っていた。彼らが今何に共感し、時間をへたときにどう感じるか。
そんな途方もない気持ちのゆれを追うことは、なかなかできない。
好きとか嫌いとか簡単に言ってしまえることではなく、見たものが血になっていく。
雪が降ると東京が脅えている。
http://washiokazuhiko.jp/
http://www.amazon.co.jp/極東ホテル-鷲尾-和彦/dp/4903545520
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旅へ行こう
北海道へ旅をしてきました。
札幌駅であまりの寒さに一緒に行った妹と帽子を購入。イタリアの毛糸の帽子を持っていったけれど、購入したイングランドの帽子(HIGHLAND 2000)が断然、暖かかった。やはり寒いところのものは違うのでしょうか。
防寒具を買うなら北海道だとおもいます。品数も質も東京に比べ良いです。
動物のお医者さんの舞台北海道大学へ行ったり、動物園で鷹と鷲の違いを聞いたり、市場で3席しかない寿司屋さんで美味しい寿司をいただいたり。雪像をつくる自衛隊のひとたちを見たり。
はじめてビールを注文して飲んだり。たっぷり楽しんできました。
動物園に行くバスがJALの手配したツアーバスだったのですが、7分遅れた二人が置いていかれ、次のホテルでロビーにいなかった3人が置いていかれました。自業自得といえばそれまでなんだけど。
沖縄だったら置いていかれない気がするのは私だけでしょうか。
バスのなかで北海道出身の知人たちの顔を思い浮かべました。北海道気質は興味深いです。




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大縄飛び
早稲田大学の学生さんが作った映像が秀逸です。
言葉では何も語られてはいないが、多くのことを語っている。
なんと言っても人と人が出会うことはたのしい。
watch?v=b2MV8G7Yk0U
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アワのワナ
中華なべを洗うときに洗剤を使ってはいけない、と横浜中華街の鍋屋さんで聞いたときは衝撃を受けた。
「でも、中華鍋を使うときは油ものが多いですよね。」
おじさんは大きくうなづきながら「いらない。」
中華鍋を使ったらすぐにお湯でさっと洗う、それだけでいいというおじさんの言うことは正しかった。
そもそもお皿を洗うときも洗剤が必要なんだろうか。
普段からできるだけ海面活性剤の少ないものを選んで少量だけ使っていたが、本当にベタベタしたもの以外は使う必要性がないことがやってみればわかる。
アワがお皿に沢山ついて綺麗になっているとCMによって思わされていた。
本当はそのアワはすぐに手をぼろぼろにする。なのでゴム手袋をしている人が多いんじゃないだろうか。でも本当は世界を汚している。「いつ、誰が、こんな世界にしてしまったの?!」ナウシカ風に問いたい。
嘆いていてもしかたがないので、そこでこれ!
アクリルたわし!

これを使うと洗剤は更にいらなくなります。茶渋もとれます。
いままでは知り合いのおばちゃんにもらっていたんだけど、とうとう自分で作ってみました。
ビックリするぐらい簡単、私のアクリルタワシの先生はこのサイトです。
http://www.tezukuritown.com/special/0902acrylic/knit.html
エコエコと言うけれど、企業も国も個人も行動を起こすのはお金に絡んだことばかり。
無意識の日常を見返して未来を見ることは、そんなにむずかしいことではないはず。
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捨てる
- 2009-12-07 (月)
- それがどーした
昨日ふとTVを見たら「捨てる技術」著者が出ていた。
本は流行っていたときに立ち読み程度しかしなかった、女性だったとは知らなかった。
それにしても、部屋が片づかないことが大問題だと思うことが恐ろしい。片づかない心地よさもある。片づけたいと思って自分で考え工夫して挫折して成功するのこともできない時代になった。いつも答えは誰かによって用意されていて、それがビジネスとなる。
その後もっとびっくりしたのは 、子どものお手伝いをさせるための講座が一泊二日で開催され、そこに真剣な顔の親子が参加しワークショップを楽しんでいた。いや家事を楽しんでいた。
親は私より少し上の世代、彼らが自分自身もお手伝いをしていない子ども時代をすごしたのだろう。そして、この講座を受けるようになったことが掃除のへたさを見ればわかる。お手伝いが子どもの成長(教育)に有意義であるという言説が参加動機のようだ。
私たち姉弟にとってお手伝いというのは日々課せられた仕事だった。わたしは朝のトイレ掃除が終わらなければ朝ご飯も食べれず学校にも行けなかった。妹は玄関、姉と兄がどこ担当だったかは忘れたが担当部署があった。そんな子ども時代を送った私にはお金をはらって子どものお手伝いを教わるというのは2重に理解に苦しむ。掃除ができない親、お手伝いを人に教わらなければやらせることができない親。
子どもが家族の一員としてできることをやる、これがお手伝いだと私は理解している。
私の親はこれを捨てなかったが、いつ、どうしてそれを親たちが捨ててしまったのか。そのことは語られることはなかった。
今朝は「お母さんといっしょ」をみたが、なかなか面白く懐かしい。
しかしTVの子ども番組はいつから素晴らしいと思われるようになったのだろうか。
そのTV番組を作っている人々の工夫は素晴らしいと私も思う。
でも、これがないと教育できないという構造が素晴らしいとは言えない。
補うはずのTVや雑誌がいまや先生になっている。
社会や地域や親族や家族や親や姉弟が、お互いに教育を担うという思想はどこですてられたのだろうか。
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