新しい家族史の綴り方

「はい。どうぞ」わたしたちはいつも小さなバトンを誰かに渡しています。

父と協力してFacebookで宮原農園のページをつくっています。この作業がもしかしたら新しい家族史や会社史になるのではないかと思い始めています。メディアは使ってみると違う側面が見えてきます。

祖父は家族史を書いて親戚や親しい友だちにプレゼントしました。曽祖父はきっと沢山の歴史を口伝してくれたことでしょう。父が家族のためだけに文章を残すとはあまり思えません。深い愛情はもっていますが、とても照れ屋さんです。けれども、いろいろな人にみていただけるという視点が入ることで、照れよりも伝えたいという思いがまさっています。また、小さな文章を日々書くこともハードルを下げています。

祖父の家族史を読むまでは、どの家族もあまり違いがないのだからそんなものに価値があるのだろうか?そんな風に家族史を見ていました。しかし実際祖父の書いた家族史を読み、私が出会ったことがない祖父の兄妹、曾祖父母、父の子供時代、貧しさ、チャレンジ、戦争で亡くなった祖父の兄妹の出生前の日記を知ることができました。まさに新しい時間の感覚を得た瞬間でした。

価値は引き継いで動きや心になります。Facebookの宮原農園で農業の知や技術を公開しながら父を中心に書いていくことが、新しい家族史の書き方として(透明性、写真、アーカイブ)とても良い方法のような気がしていきました。さて、次父はどんなことをかくのでしょうか。楽しみです。

Facebookに投稿したものですが、ここでもご紹介いたします。

<<宮原農園 葡萄栽培の歴史>>
新しいもの好きの初代俊衛(祖父)は、大粒のぶどうがなると巨峰を昭和30年代後半に植えた。が、栽培技術が確立されておらず売り物にならなかった。40年代初め2代目高夫が校長として赴任したのが東部町和(現東御市和)小学校、そこは日本一の巨峰の産地。
PTA会長さんに「りんごよりいい」と巨峰に植え替えを薦められた。石が多く乾燥で木が駄目になり草ぼうぼうのりんご畑1反歩に巨峰を植えた。父が退職した年には収穫できるようになった。真面目で几帳面な性格の高夫は栽培指導書に忠実に栽培した。目を見張るような巨峰を作った。
長野県うまい果物づくり会長賞を頂いた事もある。単価もよく別の畑も巨峰に切り替えた。収穫は、朝5時過ぎから始めた。小中学生の子供達も6時半まで手伝って学校に出掛けた。当時は高級品で1Kgの化粧箱に詰め出荷したので荷造りに時間がかかり夜12時過ぎたことが多かった。

2000年ごろ巨峰は一般化して単価も下がってきた。更に温暖で花振るい(種が入らない、巨峰は種が入らないと大粒にならない、大小混じった親子ぶどうになる)が多くなった。
また種なしぶどうのニーズが高まった。

ぶどうはジベレリンという植物ホルモン剤に花穂を開花時と2週間後に浸けると種なしになる。巨峰は、種なしにすると花振るいの心配がなく大粒になるので、だんだん切り替えることにした。
切り替えに大きな力を発揮したのが3代目パートナー重美さんだ、品種毎濃度を変え、開花時期に合わせジベ処理をする、雨が降るとやり直し空模様相談しながらである。ただ、種なし巨峰は、種ありより味が落ちる、へそが無いので脱粒しやすい欠点がある。種なしの栽培技術を習得し味もほぼ変わりなくなった。
宅配も美味しいと口コミで広がった。巨峰の価格は徐々に下がってきた。3代目が教職退職し就農した頃、新品種、皮まで食べられるナガノパープルが育種され、早速植えた。更に黄色で皮まで食べられるシャインマスカットも発売され、これも植えた。
現在はお客さんの「色々食べだい」というニーズに応えて10品種以上栽培を試みている。これは、初代のDNA?かな。
栽培方法が変わり、棚一面に枝が広がる栽培方からH状に幹が広がる短梢栽培へと変えた。パープルは皮が薄いので実割れになりやす、雨でも割れ、栽培が大変難しい。潅水方法や実の上だけに雨よけビニールを張るなど最新の技術を取り入れ美味しいパープルにしている。
今年は、宅配で種なし4品種詰め合わせで大変好評を得た。ニーズの多様化していると実感した。また、美味しとお客さんがどんどん多くなっていく。もちろん有機肥料、除草剤なし、少農薬で美味しさだけでなく安全安心にも細心の配慮をしていることもお客さんのニーズと感じている。
来年も新しい品種がなり始める。楽しみです。

 

<<宮原農園 林檎栽培の歴史>>

宮原農園は分家にでて3代目です。初代俊衛は米作りと養蚕(おかいこさんを育てまゆをとる)営んでいた。村で一番先に自転車に乗るなど好奇心旺盛な人でした。私の祖父にあたります。昭和の恐慌でまゆが暴落して成り立たなくなったり、おかいこさんの餌を育てる桑畑の中にりんごの木を植え付けました。昭和8年のことです。

村で1、2番の速さだったので「そんなもの植えて」と笑われたと祖父俊衛が言っていました。栽培技術や農薬がなく大変苦労したようです。
終戦後、りんごの需要が高まり価格も高騰し、りんごが我が家の隆盛にたいへん寄与しました。まだ「ふじ」が出る前でゴールデンやスターキング、国光が主な品種のころの話です。
今はないワインサップ、ウィルソンなど外国品種を含め10種以上栽培していました。

ふじが出回り始め早速苗木を植え付けり接ぎ木をしました。ふじが本格的成り始めた頃、2代目父の高夫が教職を定年退職したのでりんご栽培に加わりました。また3代目の私が結婚しパートナー重美も農業に加わりました。

この頃から美味いりんごをめざし栽培方法を変え始めました。
消毒作業は手打ち散布(3人で半日)から自動車型のスピードスプレヤー(1人で1時間)に短縮軽減ができるようになりました。りんごが1円玉位なると紙の袋を掛け害虫や病気を防いで、大きくなると除袋作業もあり、たいへんな作業でした。

またしばらくすると、袋を掛けない無袋栽培を始めました。りんごの色付きは良くないが味は格段に良く美味しくなりました。以前はりんご畑は草が無いように耕されいましたが、草を育て有機肥料とする草生栽培に切り替えました。
草刈りも歩行型の動力草刈機から乗用草刈機へと変えました。
問題の多い除草剤は一切使いません。有機肥料での栽培はより美味しいりんごができることがわかったので化学肥料を使わず、鶏糞を主体にし、稲わら藁を大量に敷くように変えました。

宅配の最初は、親戚に依頼されりんごを送ったのが始まりで、美味しいからと送られた方からの注文が入り、口コミでお客さんが増えていき、いまのような販売方法が確立しました。
今は3代目の私も教職を定年退職し本格的に加わっています。

おかげさまで、りんご栽培を始めて間もなく80年なります。美味く安全なりんごを皆さまにお届けするように家族みんなで助けあい栽培をしております。

 

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